XJ900S Diversionの年式

今日は XJ900S Diversion の年式についてを。

XJ900S 2000 4KM9 [Diversion]
XJ900S 4KM9

XJ900 自体は1983年から発売され、1992年モデルで発売が一度終了する。その3年後の1995年に XJ900S Diversion となって発売となった。


ヨーロッパとオーストラリアで発売されたが、北米や日本では発売されなかった。日本はまだしも、北米で発売されなかったのが少し不思議である。そんな XJ900S のモデルコード一覧を。

code name year country remarks
4KM1 XJ900S 1995 欧州
4KM2 XJ900S 1995 スペイン
4PR1 XJ900S 1995 スイス、オーストリア
4PS1 XJ900SG 1995 オーストラリア
4KM3 XJ900S 1996 欧州
4KM4 XJ900S 1996 スペイン
4PR2 XJ900S 1996 スイス、オーストリア
4PS2 XJ900SH 1996 オーストラリア
4KM5 XJ900S 1997 欧州
4KM6 XJ900S 1997 スペイン
4PR3 XJ900S 1997 スイス、オーストリア
4PS3 XJ900SJ 1997 オーストラリア
4KM7 XJ900S 1998 欧州
4KM8 XJ900S 1998 スイス、オーストリア
4PS4 XJ900SK 1998 オーストラリア
4PS5 XJ900SL 1999 オーストラリア
4KM9 XJ900S 2000 欧州
4KMA XJ900S 2000 スイス、オーストリア
4PS6 XJ900SM 2000 オーストラリア
4KMB XJ900S 2001 欧州
4KMC XJ900S 2001 スイス、オーストリア
4PS7 XJ900SN 2001 オーストラリア
4KMD XJ900S 2002 欧州、南アフリカ
4KME XJ900S 2002 スイス、オーストリア
4PS8 XJ900SP 2002 オーストラリア

何度か書いたかもしれないが、実は XJ900 はまだ作られており、そのため発売終了となって15年経っても多くの部品がまだ入手可能なのである。その作られている XJ900 は、XJ900P でポリス向け車両。モデルコードは 5JD で、最新モデルは2018年のメキシコ向け 5JDS となっている。

XJ900P 5JDN
XJ900P 5JDN

この写真は南アフリカ向けモデルで、メキシコ向けにはサイドボックスが装着されていないが、南アフリカ・アラブ首長国連邦向けモデルにはサイドボックスが装着されている。

日本では XJ900S も含めた Diversion は人気がなかったが、性能の良さはポリス向け車両に採用されて継続販売されているところからも十分わかる。

SOQIとは

YZF-R1 の資料(英語)を眺めていたら、フロントフォークが 4C8 は KYB 製、14B は SOQI 製と書いてあった。V-MAX 向けに SOQI 製のフロントフォークがあるのは知っていたが、そもそも SOQI とはどこの会社なのか疑問に思って調べてみた。

YZF-R1 2009 14B1 Front Fork
YZF-R1 14B1 Front Fork

先に答えを言うと、SOQI は創輝株式会社のブランド名で、その創輝という会社は現在ヤマハモーターパワープロダクツ株式会社になっている。創輝はヤマハモーターパワープロダクツになったが、サスペンションを含めた油圧製品については、ヤマハモーターパワープロダクツから分社したヤマハモーターハイドロリックシステム株式会社が製作している。


ヤマハモーターハイドロリックシステム株式会社(以下、YHS)の web ページには、「オーリンズブランドを冠した純正フロントフォークの共同開発・生産を請け負っています」とあるように、オーリンズブランドでの製造もおこなっている。簡単に言うと、「ヤマリンズ」などと呼ばれているもの。

YZF-R1M 2015 2KS1 Front Fork
YZF-R1M 2KS1 Front Fork

この YHS だが、創輝から調べてみるとホスクの名前が出てきたり、昌和製作所の名前が出てきたりとなかなか興味深い。簡単にだが、まとめてみた。

昌和製作所~創輝~ヤマハモーターパワープロダクツ

創輝の前身は昌和製作所と榛葉シボリ製作所で、ヤマハ発動機よりも古い会社である。榛葉シボリ製作所の「シボリ」は絞り加工のことで、金属板を圧縮加工する工法のこと。なので金属加工を行う会社ということがわかる。昌和製作所は日本高速機関を吸収合併しており、ヤマハの4ストロークモデル開発は、日本高速機関(ホスク)からの流れが大きく影響していたようである。

さらに、昌和製作所を創業した小島和三郎は、日本計算器販売という会社も創業しており、後のインテルのプロセッサに繋がっていき、と書いていきたいが話が違ってくるのでこの辺で。